2009年10月24日土曜日

10月22日(木曜日)の学習会を終えて(飯島)

 前回は「わが国の基本問題を考える ~これからの日本を展望して~」日本経団連(2005年1月18日)の読書会をやりました。

 当日は、発表者のレジュメもコンパクトにまとまっていることもあり、活発な議論が交わされました。財界の「わが国の基本問題を考える」(以下「提言」)をテキストとして取り上げた理由は次のとおりです。後期課程に入ってから憲法学習会を続けていますが、そのテキストとして弁護士で自由法曹団の坂本修氏の著書『憲法 その真実』(学習の友社)を選んだからです。

 つまり、坂本氏曰く「現行憲法を侵害した三人の『主犯』」を挙げていますが、一つ目は、アメリカ、二つ目は自民党、そして三つ目が財界とされています。その三つ目の財界の言い分に焦点を絞って議論してみようということでした。わたし自身の感想としては、「提言」は、美辞麗句でオブラートされた、一見もっともだと思わせるところが、実は危険だと思いました。

 その核心は次のとおりでしょう。「提言」では、「当面、最も求められる改正は、現実との乖離が大きい第九条第二項(戦力の不保持)ならびに、今後の適切な改正のために必要な第九六条(憲法改正要件)の二点と考える」と明確に述べています。つまり、集団的自衛権の自由な行使と、いつでも自由に憲法を変えられるように「軟性憲法」すると。

 まず最初に第九六条改正をするとは、現行の「硬性憲法」を変えることであり、いわば「外堀」を埋めることを意味するでしょう。そのあとで、各条文を自由にじっくりと書き換えができる。その主だった改正は「国益」に適うものとして出されることでしょう。「提言」のなかでは「国益」という言葉が度々登場します。しかし、誰による誰のための「国益」なのかを考える必要があります。それは「国民益」なのか「企業益」なのか(わたし自身は「国民益」をも超える「益」を考える必要があると考えますが)。「国益」は、「提言」で謳う「国際平和」「国際協調」とぶつかり合う場合はないのでしょうか。

 実際、「提言」では「東アジアのエネルギー・環境政策における課題」の節のなかで「各国の急激な需用拡大に伴い、エネルギー問題は国益のぶつかり合」うと明言しています。その場合は「人類共通の問題であるという観点」が必要であると説きます。しかし、それは、結局、観念的なものに終始するものです。結局、「国益」を大義名分にして、集団的自衛権の発動になると思います。
 その集団的自衛権の行使については、第九条第二項の改正によって可能とされます。その行使を支える国民の在り様まで言及しています。前文に関してですが、「わが国の歴史、文化、伝統などの固有性、独自性を十分に踏まえた国家理念の提示」が必要だとしています。そして、ズバリ「国民の権利と義務」という節で、「無責任な利己主義が蔓延しつつある。また、個人自らが社会に対して主体的に関与し、『公(おおやけ)』を担う気概が失われている傾向もある」(その無責任な利己主義を蔓延させたのが、財界がすすめている新自由主義だと思うが)と述べています。
 
 「提言」では第一二条(国民に対する人権の保障)と第一三条(幸福追求権)の条文に登場する「公共の福祉」に注目し、従来までの「他人を害さない範囲で」という解釈を超えて、国民の「義務」の拡大を目指している。そのことが、「実態としては、例えば、国として必要な様々な公共プロジェクト推進に際して、私権との調整に手間取り、公共の利益の実現に支障をきたしている例もある」と語り、国民の「義務」の強要をほのめかしているように、わたしには読み取れます。
 
 最後に、先進各国では憲法改正が頻繁に行われているとされていますが、フランスの場合、行政機構や手続条文に限られている。しかし、財界もバックアップした自民党「新憲法草案」などでは、ここでは詳しく述べませんが、立憲主義そのものを放棄する内容です。憲法は、権力機関が権力を濫用して主権者である国民の権利を侵害することがないように監視するためのルール」(菅沼一郎・笠原健一『Q&A 国民投票法案』大月書店)だという点を再確認したいものです。