2011年5月30日月曜日

次回は映画鑑賞で、6月10日(金曜日)開催です。

会員の皆さん、5月27日(金曜日)の読書会ではお疲れ様でした。活発な議論ができたかと思います。

次回の現代社会研究会(現社研)は、映画鑑賞です。詳細は以下のとおりです。

●日時;6月10日(金曜日)18時20分に集合
※当初の予定から、変更になりました。お間違えのないよう、ご注意ください。

●場所;現社研の部室(キャンパスプラザB312 〔B棟 3階〕)

●観賞作品『出草之歌(しゅっそうのうた)―台湾原住民の吶喊 背山一戦』(撮影/編集=井上修)
本作品のHPは以下になります。
http://headhunters.ddo.jp/

●参加費:無料

新入生の方や、初めてこのブログを読んで関心を持った方など、ご自由に参加ください(なお、二~四年生や大学院生、留学生も大歓迎です)。

★★★観賞作品『出草の歌』の紹介★★★

映画のタイトルにある通り、この映画は「歌」をテーマにして進行していきます。「出草」とは台湾の先住民族である「首刈り族」の意味。つまり、台湾・先住民族を主人公としてドキュメンタリー映画です。先住民族は、「文字を持たない私たち原住民は、歌によって言葉や神話を受け継いできました。歌こそがすべてなのです」と、途絶えようとしていた先祖伝来の歌を歌い、民族としての自覚を取り戻そうとします。その過程で、かつての帝国・日本の植民地政策や現在にまでいたる「靖国問題」にまでつながっていきます。

首狩りをする野蛮人だと先住民族を軽蔑し、同化政策を進めていた日本は、アジア・太平洋戦争中、多くの先住民族を日本軍兵士として戦場に戦死させました。そして、戦死した先住民族の人は「英霊」として靖国神社に祀られました。台湾出兵(1874年)や霧社事件(1930年)で多くの先住民族を殺した日本の軍人たちと一緒にです。これに対して自ら先住民族で台湾の女性国会議員でもあるチワスアリ(高金素梅)氏たちは「日本は我々の土地や命を奪っただけでなく、死者の魂まで奪うのか!」と靖国神社につめよります。この抗議に対して日本の右翼達が「中国人は帰れ!」と罵声を浴びせます――。

「首を刈る部族は歌が上手い」。台湾・先住民族の魂の軌跡をいやその慟哭を聞け。この音楽ドキュメンタリーを観ずして、台湾・先住民族の生き様を、いや東アジアそのものを語ることはできない。

※※※前回(5月27日)の読書会の感想※※※

取り扱った箇所は、大塚久雄著『社会科学における人間』の後半部分でした。今回は、前回のマルクスに続いて、マックス・ヴェーバーを取り上げました(Ⅲ 「ヴェーバーの社会学における人間」)。

当日の読書会では、大塚久雄=ヴェーバーの説である、宗教が現代人の行動様式に対して大きな影響を与えたという見方に対して疑問を持つとの意見がでました。つまり、本当に、禁欲的プロテスタンティズムが、資本主義を生み出す基盤となる「(ロビンソン的)人間類型」を形成したのかどうか、というです。マルクス的な言い方で言えば、社会の経済的機構が下部構造となって、上部構造である社会的・政治的精神的意識諸形態を究極的には規定する、という見方がありますが、ヴェーバーは、乱暴に要約すれば、上部構造に属する宗教的意識が下部構造に対して大きな影響を与えるという見方をしています。しかし、宗教は、ヴェーバーが強調するほどまでに経済的機構に対して影響を与える、強力な存在なのかどうか、はなはだ疑問だ、ということです。実感レベルで言えば、われわれ現代人は常日頃、プロテスタンティズムや儒教などを意識して行動していない、ということです。

このような疑問が出されることを予想してか、大塚は次のように述べています。

<すでに確立した資本主義経済の社会的機構は、もはや、人々の行動を内面から押し進めてくれる「資本主義の精神」の助けなど借りなくても、それ自身で、つまり飢餓の鞭によって、そもそも「世俗内的禁欲」が生みだしたのと同じ禁欲的な行動様式を、外側から人々に強制することができるようになりました。そうなると、資本主義経済にとって、倫理などはもはや必要ではなくなります。>

その結果、クリスチャンでもあった大塚は、ここで現代人に共通した心性すなわち「精神喪失の状況」「精神的貧困」から脱して、倫理の復権を暗に提唱することになります。

ただ、もう少し、大塚=ヴェーバーの議論を見ていきましょう。それは「予定説」が資本主義社会を自生的に形成していったという、その論理についてです。「予定説」とは、辞書によると、「キリスト教で、救われる者と救われない者とが神の意志によりあらかじめ定められているという説」だそうです。当日の読書会では、このような「予定説」によって、人々は勤勉であろうとしたのか、という点にも議論がおよびました。生まれた瞬間から運命が決まっているのだから、勤勉に働こうが無駄なあがきではないか、というふうに人々は考えなかったのか、ということです。この点について、大塚自身明確に本書で触れていません。そこで、ヴェーバー自身が明確に触れている箇所を、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫 大塚久雄訳)からの引用で紹介します。

<その一つは、誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の勧誘として斥ける、そうしたことを無条件に義務づけることだった。自己確信にないことは信仰の不足の結果であり、したがって恩恵の働きの不足に由来すると見られるからだ。このように、己れの召命に「堅く立て」との使途の勧めが、ここでは、日ごとの闘いによって自己の選びと義認の主観的確信を獲得する義務の意味に解されている。(省略)いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶えまない職業労働をきびしく教えこむということだった。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ。>(P178-179)

ヴェーバーは、「世俗的職業労働」がいわば「宗教的不安の解消の適切な手段」と見なされるに至ったと主張するわけです。ただ、このように引用を紹介しながら、わたし自身、近年の西洋経済史学において、大塚=ヴェーバー説が正しいと立証されていると断言するだけの自信がありません。具体的には「中産的生産者層」が歴史的に存在していたのかどうか、あるいは存在していたとしても資本主義を生み出すだけの歴史的な力を持っていたかどうか、疑問だということです。たしかに、「禁欲精神から、果てしなく利潤を追及する経済人が生まれた」という逆説は議論としては魅力的です。しかし、それまでのことで、にわかに賛成できないという読者も存在することは予想されます。この点をいかに考えるか。わたしは、とりあえず、ヴェーバー自身が社会政策のあり方を考え続けた人だとすれば「善きこととされて為された社会政策が、結果として社会に害を為してしまう場合がある」という現実に注視するように、人々に働きかけようとしたのではないか、と考えます(わたしの見方は、訓戒的な要素のみを抽出するだけであり、批判も多々あるかと思いますが)。

最後に、読書会の場で、本書の「Ⅳ 展望」に対して、「展望」らしくものが語られていない、との批判が出ました。その展望の無さに比して本書が広く読まれた理由とはなんだったのか。大塚=ヴェーバーが戦後日本において日本人の心性にマッチした理由のヒントとして、ありきたりかもしれませんが、社会思想家の中野敏男氏の議論を取り上げたいと思います(『大塚久雄と丸山眞男』 2001年 青土社)。

<日本が戦って破れたこの戦争の問題を、世界覇権の争奪戦の結果としてではなく、日本の「遅れ」の問題として、「東洋と西洋」と「封建制と近代性」という二つの軸で捉えようとすることは、実は、二重の意味で決定的な視野狭窄を伴なわざるをえないことになる。二重の意味とは、つぎのことである。まず第一に、それは、戦争への反省を日本の「遅れ」に求めるのであるから、この戦争の帝国主義的な覇権争奪戦としての問題性を、それゆえ、帝国主義を発動するに至った資本主義と近代国民国家の問題性を、全体として反省の対象にしない(できない)ということになるだろう。二〇世紀のこの世界戦争を、近代という時代そのもののひとつの帰結であると考えて、そこから徹底して反省を加えるということができなくなるのである。まだ第二に、それは、「日本」を「東洋」と「封建性」の代表として考えようということであるから、日本が侵略し植民地化した他のアジア諸地域と「日本」との間にある問題を、さらにはそうしたアジア諸地域そのものを反省の視野から取り落とすということになるだろう。>(P72-73)

下種の勘繰りかもしれませんが、大塚の議論は、戦後の日本人に内包された「一億総懺悔」的な戦争責任回避の心性にマッチし、心地よい言説として受け入れられていったのではないか、戦後の日本人に対して、責任逃れの言い訳を「密輸入」したのではないか、とも考えてしまいます。その結果として、中野氏の言うところの、「二重の意味で決定的な視野狭窄」に陥っていったのではないか。最後は、「戦後啓蒙」の旗手である大塚に対してかなり酷な言い方になりました。

以上、読書会の議論を踏まえての、わたしの感想です。現社研では、次回は映画鑑賞会ですが、次々回以降も読書会を引き続きおこなっていきます。会員の皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。
 
【文責:飯島】