2012年11月2日金曜日

次回の学習会は11月7日(水曜日)です。

 現代社会研究会(現社研)の皆様、10月30日(月)の学習会はお疲れ様でした。特に、報告者の方はご苦労様でした。

今回の学習会もテーマが「安楽死問題」でした。報告者は、「安楽死問題」でも外すことのできない「自己決定権」の根本にある「自己」あるいは「自我」の今日的意味を探るという意図で、「自己」あるいは「自我」の概念をめぐる、これまでの思想的な歩みを、その一部ですが簡単にフォローしました。以下、その報告の模様を簡単に触れます。

まず、ジョン・ロック(『人間知性論』)、ヒューム(『人性論』)、アダム・スミス(『道徳感情論』)の17・18世紀のイギリス経験論における、「人格(自我)」をめぐる議論を眺めてみました。ロックの人格同一性論、ヒュームの「心は知覚表象の束」であるという定義、スミスの「中立的な観察者の目」によって形成・調整される「利己心」に注目しました。ここに近代的な「自我」が確立したということを、一面的ではありますが、確認しました。

 そしてこれらの「個人主義」がジェレミー・ベンサムやJ.S.ミルの19世紀イギリス功利主義に引き継がれていく様を確認しました。「最大多数の最大幸福」の実現をめざしたベンサムに対して、ミルは功利主義が個人の自由な文化的な低俗主義に陥らないために、個人による自由な選択の確立を主張します。自由な選択が文化の向上に寄与するという、ミルの理想主義は明るく楽観的です。

しかし、20世紀には入り、事態は暗転します。人々はせっかく確立した「自由」を放棄し、ファシズムへと傾斜します。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾の暗い「預言」。ウォルター・リップマンの「世論」の非合理性への着目。そしてオルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』における、自由を否定する大衆の登場などを一瞥しました。そしてエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』やマックス・ホルクハイマーの『権威主義的国家』を通じて、人々がせっかく手に入れた個人的な自由を半ば積極的に放棄して、ファシズムへと向かったのか、その理由を考えました。フロムの議論を要約すると、「近代社会は、前近代的な社会の絆から個人を解放して一応の安定を与えたが、同時に個人的自我の実現、すなわち個人の知的、感情的、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得できず、かえって不安をつくり上げた」と。

つまり、かなり乱暴なまとめをすると、17・18世紀のイギリス経験論が獲得した「自我」の自由を、19世紀のイギリス功利主義が半ば楽観的に展開したのに対して、20世紀前半の時期はせっかく手に入れたこの遺産を放棄してしまう様(さま)を概観してみました。 

しかし、今回の報告における、このような見方は非常に一面的ではあります。さらに20世紀後半から現代に至る、「自我」の自由をめぐる議論にまで触れることができませんでした。また、ファシズムへの傾斜を防ぐ処方箋についても結論は出ませんでした。駒場祭に向けた今後の課題でもあるでしょう。


次回も引き続き「安楽死問題」を取り上げます。奮っての参加を求めます。 

次回の学習会のお知らせです。

●日時:11月7日(水曜日)18時30分〜

●場所:キャンパスプラザB312(現社研の部室)

●テーマ:安楽死問題

 

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<文責:飯島>