2013年10月7日月曜日

現社研の駒場祭企画は「教育」がテーマです。


わたしたち現代社会研究会(現社研)は、今年も駒場祭に企画参加します。

企画名は「多角的に見る現代社会ーー教育を問う」です。

つまり、テーマは「教育」です。

現社研の簡単な企画紹介文は以下のとおりです。

〜〜次世代を育む「教育」は、この社会の未来を左右します。教育について多角的に研究した成果を、パネルで発表します。

 ※駒場祭にあわせて制作する冊子は少し厚い分量になるかと思います。関心がある方には企画会場にてお配りしたいと考えています。

現時点での企画紹介は以上になります。
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以下、教育について短く論じてみました。時間の余裕のある方はお読みください(あくまで、執筆者個人の見解であり、現社研の組織としての統一見解ではありません。)

〔教育は義務か権利か〕

 ところで、一般に、国民の三大義務のひとつとして、教育を受けさせる義務があることはご承知のとおりですが(その他は、労働の義務、納税の義務)、ここで「義務」とは「自由権」として守られる「権利」と置き換えてしまってもよいではないでしょうか。あるいは、教育を受けさせる義務とは、国家に対して合理的な教育制度の整備とそこでの適切な教育を要求する権利としての、国に対して要求できる「社会権」としての性格を帯びると解釈されています。つまり、親には子どもに「教育を」受けさせる義務を、子どもには教育を受ける「権利」を与えることが憲法解釈として定着しているのではないでしょうか。

 つまり、憲法法二六条は「教育を受ける権利」を規定した内容だと思われます。

<①すべての国民は、法律の定めるところにより、この能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を受ける権利を有する。

②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を追ふ。義務教育は、これを無償とする。>(二六条全文)

この「国民三大義務」を字面だけを捉えて、納税せず労働せず教育を受けない(勉強しない)人間は憲法違反を犯しているという「正論」があります(わたしの周囲にも確実にそう唱える人がいた)。しかし、この「正論」は、憲法上の「義務」の意味を履き違えている、言いがかりに過ぎない代物だと言えるのではないでしょうか(納税の場合でも「国民が国家権力に対して税金を払う権利」だとわたしは解釈します)。統治権力を縛るための憲法によって一般市民を罰しようとする事態においては、そもそも立憲主義における「憲法と法律一般との関係」が転倒してしまっています。さらに逆にいえば(正しくいえば)、国家からみた場合、国家は子どもに対して教育機会を実質的に与えるような環境を整備する義務があるということになるでしょう。国家は真っ先に、教育環境の整備に取り組まなければならないのです。

(以上のわたしの説明に誤りがあるでしょうか。ちなみにわたしは法律家でも法学生でもありません。ご指摘いただければ幸いです。)

〔”教育”の語りやすさ〕
 
いささか、硬い話になってしまいましたが、日本でも明治維新以降、国民教育が良くも悪くも相対的に徹底しておこなわれた結果、国民のすべてが公立学校・私立学校などを中心に、「国民皆教育」という事態になりました。明るい学園生活を送った人もいれば、いじめや体罰に悩みつづけた学園生活を送った人もいたりして、人それぞれです。ただ、「国民皆教育」を体験するという一点で日本人みんなが結びつくことができるでしょう。しかし、他方で、実際の学校生活はあまりに多様です。そのことを背景にして、みんなが一介の教育評論家になれてしまうのではないでしょうか(一億総教育評論家化)。文字通り「教育を誰もが体験しているのです」から。日本のエネルギー資源の今後のあり方を語る人はそう多くないはいないけれども、教育の場合では予備知識があまりなくても、自己の教育体験に基づいた、ある一定レベルの意見を述べることができるようになっている。その点で、プロの教育者ではあるが駆け出しで経験不足の先生に対しては、教育について「経験豊富」だと自認する保護者たちから、集中砲火を浴びやすいという事態も、上述の説明の一端をなしてりうのではないでしょうか。だから、今回の現社研の企画は、誰もが教育問題に一家言ある人になりやすいので、比較的取り組みやすい反面、内容のレベルの高さが要求される性格のものといえるのではないでしょうか。
 

【以上 文責:飯島】