2016年5月17日火曜日

読書会『オブローモフ主義とは何か?』報告(2016年5月11日実施)

 TOSMOSでは2016511日(水曜日)に読書会(テキスト:ドブロリューボフ著「オブローモフ主義とは何か?」)を実施しました。以下、その報告と討論の様子を簡単に紹介します。

【テキストと著者の紹介】

まず、簡単に読書会のテキストの紹介をします。テキストの著者であるドブロリューボフは1836年生まれで1861年に25歳で夭折した、ロシアの批評家です。TOSMOSの今回の読書会で使用したテキスト「オブローモフ主義とは何か?」(1859年発表)は、同じくロシアの作家・ゴンチャロフが1859年に発表した長編小説『オブローモフ』を評したものとなります。この小説のなかで、主人公オブローモフは大学で教育を受け、教養も才能もあるにもかかわらず、食べることと寝ること以外は特に何もしない怠惰な生活を送っている。その様子が描かれます。プーシキンの『オネーギン』を嚆矢とする、19世紀のロシア文学者が執拗に描いてきた、ロシア農奴制下の寄生的生活の所産である才能ある「余計者」の典型がここで描かれているのです。

【テキストの時代背景】

当日の報告では年表を使って、テキストが発表された前後のロシアの時代背景を簡単に触れました。1825年のデカブリストの乱(農奴制とツァーリズム転覆を狙った、「ロシアで最初の自由主義革命運動」。ロシアの青年将校・自由主義貴族による反乱)の後、184050年のインテリゲンツィヤ(知識人)の活動が活発化し、厳しい弾圧のもと、文学・哲学により政治批判が盛んに行われます(たとえば、西欧主義とスラヴ主義の応酬など)。そして1861年に農奴解放令が出たあと、187080年代に「ヴ・ナロード(人民の中へ)」のスローガンのもとに、農村共同体のなかに分け入りナロードニキ運動が展開されるものの、ほどなくして挫折。ニヒリズムとアナーキズムが蔓延して、アレクサンドル2世の暗殺へといたります。こうしたなか、ロシアは本格的な資本主義の時代へと入り、特に1890年代にはヴィッテ蔵相のもと資本主義化・工業化が推進されます。そして、1898年にマルクス主義者を中心にロシア社会民主労働党が結成されて、次世紀初頭のロシア革命へといたるわけです。

テキスト「オブローモフ主義とは何か?」はアレクサンドル2世治下で農奴解放令が出される2年前の1859年に発表されます。それは同時にロシアが資本主義化・工業化する前夜に発表されたことにもなるでしょう。著者ドブロリューボフは「農民革命による社会主義社会を目指した」とされますが、ロシア社会に確固として根づいている農村共同体といかに向き合うかが問われた時代でもあるでしょう。以上、時代背景についていくぶん長く説明したのも、テキストそのものがきわめて「時代の書」であることも考慮したからです。

【「オブローモフ主義」者の特徴】

さて、「生ける現代のロシア人のタイプ」とされる「オブローモフ主義」とは何でしょうか。著者はその特徴を「地上に生起するすべてのものにたいする無関心から生まれる、完全なる無気力にある」という、知的な精神的発達の状態に起因するものだと規定します。「みずからの努力によらず、他人の努力によっておのれの希望を満足させようとする、いとうべき習慣が――彼(オブローモフ)のなかに無関心な不精さを発達させ、彼をみじめな精神的奴隷状態におとしいれたのである」と説明されます。そこには己を意味たらしめる「実生活」そのものの欠如があります。「彼ら(「オブローモフ主義」者たち)にとって生活上の必要物ともなり、心から神聖なものとなり、宗教ともなるような仕事、彼らの肉体と有機的にむすびついて成長し、それをとり去ることが彼らの生命をうばうことを意味するような仕事が彼らの生活のなかになかったことである。彼らにあってはすべてが外面的であり、何ものも彼らの天性のなかに根ざしていない。」と、著者は「オブローモフ主義」者の思想と行動の特性を摘出してみせます。

さらに、ドブロリューボフ自身の言葉を拾って「オブローモフ気質」の輪郭の明確化を試みますと、「オブローモフ主義」者は、「手段を目的に適応させる能力」がなく、「自分が何をすることができ、何をすることができないかをよく判定すること」ができず、「まわりのすべてのものにたいする自分の本当の関係を理解」することや、「世間や社会にたいする自分の関係をあきらかにすること」、そして「生活のなかに目的を見」て、「適当な事業を見だすこと」、「自分たちは多くのことをなしうるかもしれないが結局は何もしないでおわるだろうという意識」から抜け出すができないと、まとめることができるでしょう。

そこから脱するためには、著者自身の言葉を使えば、「ことばによってではなく、頭と心と手とをともに動かす、現実の行動をする」ことであり、「自分たちをおしつぶそうとしている環境との、おそろしい、命がけのたたかいの必然性の自覚に徹」すること、「(自分にとって)生活上の必要物となり、心から神聖なものともなり、宗教ともなるような仕事、彼らの肉体と有機的にむすびついて成長し、それをとり去ることが彼らの生命をうばうことを意味するような仕事」にとりかかる必要があると言えるでしょう。

【このテキストを選んだねらい】

以上、テキストの内容を概観しました。ここで、テキストの発表から約150年後の現代の日本社会に生きるわれわれにとって、このテキストの持つ意義について考えてみたいと思います。当日の読書会の場では、一番多く出た感想として、「自分もまたオブローモフ主義者ではないか。」「オブローモフ気質の記述を読んで、わが身にひき比べて、他人事ではなく、文字通り身につまされた。」「オブローモフは私自身だ。」などがありました。

わたし(飯島)がこのテキストを提案したのも、「オブローモフ主義」をわが身にひつけて考えることで、現代における日本の学生にとっても、大学での学問・研究をおこなうにあたって、その姿勢を自省するきっかけとして示唆に富む文献であると考えたからでした。いわば「オブローモフ主義」を“反面教師”とするかたちで、自分と社会や世間そして時代といかにきりむすび、生活に根付いたかたちで目的を設定し、その実現のために手段を取捨選択し、人生という“事業”の達成のために邁進していけばよいのか。そのことを自省する一助となるのではないか。その姿勢は大学での学問・研究態度にも通じるのではないか。それが、いささかナイーブかもしれませんが、このテキストを選んだねらいでもありました。

 【著者は誰にむけて何のために書いたのか】

 ところで、当日の読書会では、ドブロリューボフは「オブローモフ主義」者の“更生”の可能性が問題となりました。はたして、オブローモフ主義者は「オブローモフ主義」を脱して、広い意味での社会の変革者へと生まれ変わることができるのか、という問いです。岩波文庫版の訳者である金子幸彦の「解説」(岩波文庫に所収)には、次の一節があります。すなわち、「ドブロリューボフは農民革命を組織し指導すべきインテリゲンツィヤの役割を重視する。したがってその役割をはたしうるのはもはや貴族インテリゲンツィヤではなく、これに替わって登場した平民階級のインテリゲンツィヤである。」と。
 
 その指摘を踏まえて、発言者のひとりは、「ドブロリューボフは、「オブローモフ主義」に蝕まれた貴族インテリゲンツィヤにもはや期待せず、新しく登場した「オブローモフ主義」の害悪から相対的にまぬがれている平民階級のインテリゲンツィヤたちにこそ語りかけているのではないか。」と意見を述べました。「だから、フランス革命の余波を受けつつ、近代化・資本主義化・工業化への時代へと進展することによって、貴族インテリゲンツィヤは消滅しようとしているのであり、それは同時に「オブローモフ主義」の消滅を意味している」というわけです。
 
 わたし(飯島)は、「それでも、ドブロリューボフは、『オブローモフ』の登場人物であるシトーリツという男性やオリガという女性の存在に着目することで、彼らのような他者との交流を通じて、主人公が「オブローモフ主義」から脱することに著者は期待していたのではないか」と応じました。それに対して、「オリガ自身が時代の変革者になる可能性があったとしても、まちがってもオブローモフ自体には著者(ドブロリューボフ)は何も期待していない。」との答えが返ってきました。読書会当日はそのあたりで時間切れとなりました(わたし自身の思い込みもあり、意見交換を正確に再現できているかどうか自信はありませんが)。

 以下、後日わたし(飯島)が考えたことを書きます。仮に「オブローモフ主義」者が自然消滅するのであるならば、そもそも著者は「オブローモフ主義」を執拗に論じた「オブローモフ主義とは何か?」を書く必然性はないわけです。なぜなら、彼らは放っておいても、自動的に崩壊するのだからです。それでは、なぜ著者はこのテキストを書いたのか。その動機が気になります。ドブロリューボフの真意について確証を得ているわけではありませんが、平民階級のインテリ層を読者として想定して書いたということは、“敵”である貴族インテリ層は「オブローモフ主義」に毒されていて、自動的に消滅していくのだから、「貴族インテリ層は“敵”として怖れるに足りず。自信をもって政治活動すべき!」という、(裏の)メッセージを発したとも考えられます。ただし、これはわたし自身の過剰な深読みかもしれませんが。

 ところで、前述の金子幸彦の「解説」には、「彼らの存在そのものも一つの社会的抗議の意味をもっていた。」との記述があります。なぜ「オブローモフ主義」者の言動が「社会的抗議」を帯びるのか、その理由をわたしにはまだ理解できていません。テキストをもう少し読み込むことが大切であると同時に、同じ岩波文庫に所収の、ドブロリューボフの評論「その日はいつ来るか?」もあわせて検討する必要がありそうですが、その点については今後の課題としたいと思います。

 【まとめ――この読書会の意図】

 以上、読書会の模様のまとめを試みました。最後になりましたが(最初に書くべきことだったかもしれませんが)、この読書会の意図に触れたいと思います。そもそも、「いかに学ぶか」という問いは「いかに生きるか」という問いと直結します。生きるという営みのなかに学問的営為を含ませることが大切です。TOSMOSでは、今回、その意義を再考するきっかけとなればと企図して、このテキストの読書会を実施しました。この読書会が、各参加者にとって、己の立脚点を定める一助となるような、学問・研究のオリエンテーションの場となったならば、読書会の当初の目的は達成できたのではないかと思います。今後もTOSMOSでは読書会や学習会などを通じて、現代社会を読み解くスキルを身につけていけるような活動をおこなっていきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

【文責:飯島】