2015年10月28日水曜日

次回の読書会は11月4日(水曜日)です

次回の読書会

次回の「読書会」の詳細は下記のとおりとなります。「読書会」では、報告者が要約レジュメなどを作成して報告をおこない、その後でテキスト(今回はレーニン著「民族自決権について」)の内容をめぐってみんなで議論します。テキストを事前に読んできて頂けるとより深い議論ができるので望ましいですが、テキストを読むことができなかった場合あるいはテキストを入手することができなかった場合でも参加して頂いて大丈夫ですので、お気軽にご参加ください(テキストの入手方法については下記のとおりです)。皆さんのお越しをお待ちしております。

○日程:114日(水曜日)1900分から

場所:キャンパスプラザB312(TOSMOSの部室)
※なお、部室(キャンパスプラザB棟)へのアクセスについては、下記のリンク先の地図を参考にしてください。http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_43_j.html

報告者:TOSMOS会員

テキスト:レーニン著論文「民族自決権について」(1914年執筆)
※レーニンが執筆した上記の論文を扱いますので、図書館で借りるか購入するなどして、各自でテキストを入手のうえ、できれば読んできてください。
※テキストの入手について
大月書店刊『民族自決権について―他十篇』(国民文庫)というタイトルの本の中に、上記の論文が収録されています。ただし、この本は「品切れ・重版未定」となっており、一般の書店で入手するのは困難ですので、入手される場合は、図書館で借りるか、古本で購入するのがよいと思います。
(なお、大きな図書館などにあるレーニンの『全集』〔第20巻〕にも、上記の論文は収録されています。)

 
○今回の書会の趣旨について:
のちにロシア革命の指導者となったレーニンもその作成に関わった「ロシア社会民主労働党綱領」(1903年)。その第九条には<民族自決権>が明記されていた。当時としては画期的であった<民族自決権>をめぐって激しい論争が当時の社会主義者の間で繰りひろげられることなる。本テキストはその過程で生まれたものである(1914年発表)。翻って、21世紀初頭の現在、<「民族自決」のスローガンはかつてのような輝きをもたなくなり、「至上の正義」というよりは、むしろ「条件次第では認められるが、過度に固執するのは危険だ」という受けとめ方が広がっている。>(塩川伸明著『民族とネイション』岩波新書p167)という指摘もなされている。わたしたちは<民族自決権>とその背後にあるナショナリズムにどのように向き合えばよいのか。民族問題について多数の論考を残した、レーニンの著作を手がかりに考えていきたい。

なお、今後の学習会等の際には適宜、終了後に駒場祭に向けた打ち合わせも行う予定です。)

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 TOSMOSは、現代社会の様々な問題について、その本質を究明し、解決の道筋を考える東京大学の学術文化系サークルです。
 国際情勢、国内情勢、政治、経済、科学、生命倫理など、さまざまなテーマに関して、学習会、読書会、合宿などを通じて理解を深める研究活動をしています。もし多少でも興味がありましたら、一度わたしたちの活動を見学してみませんか?TOSMOSでは現代社会について一緒に研究する新入会員を募集しています。
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1020日は『トルコのもう一つの顔』(著者:小島剛一 中公新書 1991年)の読書会をおこないました。言語学者でもある著者(小島氏)は、トルコを1970年に初めて訪れて以来、十数年にわたり1年の半分をトルコでの野外調査に費やす日々が続いたそうです。最終的にはトルコのすべての地域を踏破し、そのなかで、著者はトルコ国内のクルド語などの少数民族の言語の存在を“再発見”をしていきます(ただし、クルド人の人口を考えれば、クルド人を「少数」だとはもはや言えないのかもしれませんが)。この“再発見”とは一体どういう意味なのでしょうか?  

ご存知の方もおられるかと思いますが、トルコでは(トルコ以外の国でも大なり小なり見受けられる傾向なのでしょうが)、現在にいたるまで、クルド語に限らず、大多数の少数民族言語はトルコ国内で読み書き話すことを禁じられています。「トルコ国民はすべてトルコ人であり、トルコ人の言語はトルコ語以外にない、トルコ語以外の言葉はトルコ国内に存在しない」というのがトルコ共和国建国以来の歴代のトルコ政府の公式見解となっています。そのため否応なく、著者のクルド語(などの少数民族の言語の)採取の実地研究はトルコ中央政府の公式見解と真正面から衝突することになります。

たとえば、トルコ国内では、トルコ政府による苛烈な弾圧のために、「隠れ民族」や「忘れ民族」が存在していると著者は指摘します。「隠れ民族」や「忘れ民族」とは著者が命名したものです。すなわち、「隠れ民族」とは「かつての日本の隠れキリシタンのように自分たちの真の姿をひた隠しにして生きている民族」のことを指し、さらにひどいケースとして、「忘れ民族」という「ひた隠しにするあまり自分たちが本当はなんであったのかわからなくなってしまった民族」も広範に見受けられるということです。著者は、それら「隠れ民族」や「忘れ民族」の言葉の“再発見”を試みるわけですが、当然ながら、トルコ政府の公式見解と対立することになります。本書はそのような苦労話が中心となって構成されています。

そもそも、著者は、ヒッチハイクや自転車でトルコを初めて旅したとき、トルコ人のホスピタリティー(客を親切にもてなすこと)の良さに触れ、「トルコ人ほど親切な人たちは珍しい」とトルコに魅了されるようになりました。以来、著者は、言語学研究のために年に数ヶ月トルコに滞在し、各地を周るようになるわけです。そして、その過程で先述のようにトルコならではの、外国人が安易に触れてはいけないナイーブな事情に著者は近接することになります。

また、トルコならではの事情についての指摘は言語以外の問題にも及びます。トルコの学校における歴史教育では、「アルメニアという国は歴史上『一度も存在しなかった』」と教え、「ジンギス汗はトルコ人である」との、日本のコンビニに置いてあるようなトンデモ本の類に書いてあるようなことが歴史教科書に公然と書いてあるといいます。他人事ながら、そのような歴史教科書を「学習」したトルコの子どもが将来外国に出て行った場合に「大丈夫なのか」と心配してしまいます。自国民中心主義の歴史教育に堕してしまう点ではトルコも例外ではないようです。

さらにエスニックの点からも、トルコ政府は他民族に対する極めて差別的な態度をとっていると著者は指摘します。たとえば、「アフガニスタンからの『トルコ系』難民は喜んで受け入れ、耕地を与えるなどしたトルコだが、クルド人難民は『招かれざる客』であり、イラン政府と交渉して一部をイランに受け入れさせた」事実などが挙げられます。クルド語はトルコ語の「方言」に過ぎないとする、トルコ政府の姿勢は、口では“誰もが平等なトルコ人”と言っているが、実際には、トルコ系民族を露骨に優遇しているだけという、建前と本音が大きく解離している実態を覆い隠しているのだといえるかもしれません。

また、本書では宗教上の事情も少しですが紹介されています。たしかに、トルコ共和国建国の父ムスタファ・ケマルは近代化(世俗化主義化)を目指していました。しかし、当たり前といえばそれまでですが、トルコ人の日常生活においては、ムスリムとして他のムスリム諸国との連帯感や、ムスリムとそれ以外といったような、ウチとソトとを区別するアンデンティティの作用が働いているようです。

トルコ中央政府に対して辛い指摘が本書では続きますが、著者の体験をそのまま信じるとするならば、単なる官憲から不快な対応を受けたという以上の、身の危険や言語学研究の道が断たれかねないような状況にまで著者は直面していることになります。トルコ政府の役人やトルコ政府寄りの知識人(トルコ政府の弾圧により、「クルド人寄りの知識人」はそもそもトルコ国内で活動するのが難しいのですが)からの、著者に対する露骨な「介入」の数々に、日本の読者としては背筋が凍る思いもします。もちろん、日本にもマスコミなどが触れることのできないタブーはそれなりに存在しています。それでも、本書を読んで、カルチャー・ショック(あるいは恐怖)にわたし(飯島)は襲われました。

なお、読書会の場では、総じて、言語学研究にだけに特化する著者の姿勢は、なんでも言語学的に解釈してしまう“言語学還元主義”に陥っていないかとの意見も出されました。政治・経済分野には門外漢だとしてそれらの問題にあえて触れない、著者のある種の禁欲的な姿勢に対する評価は難しいところですが。

総じていえば、本書は主にトルコ国内の話に限っており、しかも旅行記風に書かれていますが、日本ではなかなか対面することのない(もちろん、わたしは在日外国人の存在を忘れているわけではありませんが)、”民族問題”の奥深さを肌でリアルに体感するには格好の入門書だと思われます。トルコ政府の「介入」に対する、著者の立ち振る舞い(や遣り取り)はなかなか面白く、それはそれで著者による民族問題へのひとつの見識を提示しているように思われます。ぜひご一読を。

【文責:飯島】